食と環境を考える京北スーパー

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京北物語

昭和29年 市制祝賀で賑わう駅前

昭和29年 市制祝賀で賑わう駅前

昭和の始め、京北スーパーの先々代石戸喜一郎は、現在の二番街で運送業を営んでいました。運送の主流はもちろん荷馬車で、この頃は道路も舗装されていませんでしたから、砂埃の舞う往来には馬車の音が行き交い、駅前商店の子どもたちの仕事は馬糞取りでした。運送業の他にハイヤーも扱っておりましたが、自動車はたいへん珍しく、乗り合い自動車と呼ばれたバスも柏に4台きりしかなかったそうです。電灯の恩恵に浴していない家庭も多かったこの時代、農家の豪壮な建物が「千円普請」といわれていたのに対し、フォードの新車が約二千円だったそうです。

昭和30年代初めの二番街

昭和30年代初めの二番街

戦争の為、運送業をやめた喜一郎は、昭和26年5月に鮮魚と乾物の店「石戸商店」を開店させます。これが現在のKEIHOKUの前身でした。のちに柏で初めてのスーパーマーケットを作る喜一郎の次男、石戸孝行はこの時13歳でした。「石戸商店」の開店祝いはたいへんな賑わいでした。駅前通りをチンドン屋が練り歩き、店の中はお客さんであふれていました。しかしその裏で喜一郎と奥さんのサダさんは悲しい思いをこらえていたのです。実はこの日は長男の初七日だったのです。サダさんはお客さんの隙を見ては奥の部屋の仏壇に手を合せ、泣いていたそうです。なんとも辛い開店の時の秘話です。この頃の柏には公衆電話が3台、役所前と郵便局前、そして駅前に設置されていました。 もちろん電話器はハンドルを廻すと交換手が出て来る共電式です。

昭和32年 駅前防災化ビル

昭和32年 駅前防災化ビル

昭和30年12月、木造家屋が並ぶ、のどかな商店街に「柏の大火」が起ります。この火事がきっかけで、駅前の防災化が進みます。第1期、第2期と商店街の建物を鉄筋コンクリートにする工事が始まりました。当時、人口5万人余の市で近代的な耐火建築商店街を持った街は少なく、柏の駅前は全国から注目を浴びたといいます。 「石戸商店」も第3期にビル建設に着工し、「京北スーパー」誕生となるのですが、この間にすでに父の喜一郎は永眠し、孝行が後を継いでいました。

昭和38年12月14日、赤穂浪士討ち入りの日に、柏で初めてのスーパーマーケットがオープンします。京北スーパー開店の翌年、柏市の人口は10万人に達しました。駅前には大型スーパーが進出し、商圏柏は日本一の激選区となっていきます。

昭和45年頃の旧柏駅

昭和45年頃の旧柏駅

ここで京北スーパーの転機が訪れます。孝行は食を扱う商人として“商道”を考える、インド・スリランカへの長い旅に出ます。この旅に同行し、お釈迦様の思想を説いてくれたのが、青山 紀伊国屋の社長だったそうです。旅の終わりに「本物」に辿り着いた孝行は、帰国後の徹底的な商品の研究と絞り込みで、鮮度や品質にこだわる品選びをしました。身体に良い「本物」を扱う店づくりに励みました。

昭和50年の二番街

昭和50年の二番街

これは余談になりますが、京北スーパーでは、昭和59年4月に煙草の害が問題視されはじめたのをきっかけに、煙草の販売を中止しました。年間4,000万円の売り上げを棒に振って、新聞にチラシ広告も出しました。「煙草販売致しません!!」というチラシは、こんな広告は初めてだと話題になったそうです。マスコミでも「売り上げ減を覚悟で販売中止の広告を出したスーパー」と取り上げられ、注目を浴びたそうです。理由を尋ねると「煙草は身体によろしくないので‥」とにっこり、孝行らしい答えが返ってきました。

21世紀に向かい、KEIHOKUになった本物を扱う当店は、石戸喜一郎から孝行、山田俊一、そして孝行の長男義行に引き継がれ、今、社長室には歴代の3人の男達の写真が飾られています。「本物」を追求し、初心を忘れず新しい食の時代を担うために。

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